ミトココロノココロミ -2ページ目

親心

秋田の児童殺害事件で,
容疑者が自分の娘に対してやっていたことが,
所詮は自分の見栄のためにやっていたことではないかうんぬんと,
マスコミでは言われたりしているようだ。
それであの容疑者をひどいやつだと決めつけたいのだろうが,
世のいわゆる「教育熱心な親」というのはこれと大差無いように感じる。

今,小学校3年生を教えているが,
塾の宿題をやっている時間が無い,と親がいう。
そんなべらぼうな宿題を与えているわけでもなく,
私は「ここまでやれたら十分やから」と
子どもたちには極めて控えめに宿題の量を提示しているつもりである。
「そんなはずはなかろう」と思って話を聞くと,
他にピアノやらバレエやら英会話やらサッカーやら野球やら
バイオリンやら公文式やらを習ってるという
(大抵はこのうちの複数を習っていたりする)。
口に出しては言わないものの,
私はこの手の相談を受ける度に
「おたくの息子(娘)に何をさせたいんですか?」と呆れ果てる。
その全部がものになるとでも思っているのだろうか?
中途半端なものばかりを拾い集めてどうするつもりなのだろう?
この時期の子どもの教育で,何より大事なのは
自分であるものを「楽しい」と思わせることだと私は思う。
全部中途半端なら,何一つ楽しめるわけないではないか。

奈良での放火殺人事件を見てても,
子どもが親の顔色をうかがいながら勉強していた節が見える。
勉強なんて自分で,あくまで自分のためにやるものだ。
いい年した子どもの成績に親が介入していること自体がどうかしている。
仮にそんなやつが親の期待に沿って医者になったとしても,
そんな主体性の無い医者,こっちから願い下げだ。
あそこの父親が「教育は家庭の役割だ」うんぬんと言っていたというが,
どうも激しい勘違いが顔を覗かせているように感じる。
親の勉強に対する役割は
「色々楽しいものや,やりがいのあるものを垣間見せてやること」と,
「最低限の環境を与えてやること」ぐらいではなかろうか。

子どもは親心なんて汲まないもの。
教育なんて,それぐらいに思っててちょうどいいぐらいのものだと思う。
子どもは親のおもちゃではない。

断面

生徒は百人百色。
それぞれの対応を考えると,色々なことをやらないといけなくなるわけで。
で,ちょっとこんなところに現実逃避。

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切り取った一断面を見ただけでは
元の物体がどんな形をしていたかなんて判断はつかない。

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秋田の小学生が殺害された事件で,
容疑者がマスコミに対して怒りちらしていたところがテレビで流れている。
あれで容疑者を「粗暴な人間」というイメージの枠に収めることに
まんまと成功したのだろうが,
あの前の映像は(おそらく)どのマスコミも流していない。
たとえあのマスコミの中の一人が
「姉ちゃん,わしに一発やらせろや」
とか執拗に迫り,
それで彼女が切れたのだとしてもそんなことは流れはしない。
例は極端だが,あの場にいたマスコミが,
人として礼に失するようなことをしていたとしても,
そんなことは流れはしない,ということだ。

彼らは真実なんて絶対に伝えはしない。
彼らが伝えうるものは,
自分たちが好き勝手に切ったいびつな断面だけだ。
恥を知れ。

叫び

↓とかなんとか書きながらピンク・フロイドの「ザ・ウォール」なんて
暗いアルバムが好きって時点で矛盾してたりもする。

でも,無理矢理正当化するなら,
ここには「叫び」があるのです。
静かな「叫び」が。

暗くても,叫んでるならそれでいいのです,私としては。
多分。

絶望

昔,矢野顕子さんが言っていた。

「世の中絶望することが多いけど,
私は歌で『絶望』なんて共有したくない。」と。

ピアノを軽く弾いて,笑いながら話していた矢野さんの顔が,
その瞬間,真顔になった。
とても,印象に残っている言葉である。

映画にしろ,テレビにしろ,本にしろ,芝居にしろ,ダンスにしろ,
金を払って,あるいは時間を費やして見たもので,
自意識の傷から吹き出した膿を煮こごらせたような
ドロドロした表現を見せられると心底気分が悪くなる。

私は絶望なんて共有したくない。

感性

今は「感性の時代」みたいなことを言う人がいる。
いわく,「『好きなものは好き,嫌いなものは嫌い』という
個人の感性的な価値観が表立った時代」だのうんぬんかんぬん。

はて。

それって「感性」なんですかね。
私には単なる「生理的な反応」にしか聞こえないのですが。

言葉の厳密な定義をさておき,
相も変わらず言葉遊びに終始しますが,
感性ってもっと強力なようのもののように感じるのです。

例えば,昔の宮大工の感覚。
「樹齢千年の樹で建てた家は千年もつ」。
もちろん樹齢だけの問題では無いでしょうが,
実際,彼らの考えって実証されているわけですよね。
でも,彼らが経験的にそれを知っていたはずはないわけです。
千年生きれるわけないんですから当たり前ですね。
でも,彼らは「知ってた」わけです。
それを知り得たのは,彼らの「感性」が研ぎ澄まされていたからじゃないかな,
とそんなことを思ったりするわけです。

感性ってのはそういうもんだと思うのです。
生理的な感覚なんて,
まさに赤ん坊でも持ってるわけです。
おむつがしめって気持ち悪ければ泣く。
ちまたで言われている感性って,
その赤ん坊の生理となんら変わらない低俗なものだと思うのです。
単純で,深みの何にも無い,生理的な感覚を
「感性」なんて言葉で美化しちゃいかんと思うのです。

アメリカ

いらん。

包容

真正面からぶつかって叩き潰す者は弱い。
受け入れて飲み込んでしまう者の方がずっと強い。
そんなことを思わされた土曜の夜。

適性

それぞれの人の適性みたいなものがあるのだとしたら,
私はきっと「サポートする人」「情報を整理する人」「伝える人」
のどれかじゃないかな,
と思う。
当人にとっては非常に残念なことながら,
こういう人に新しいものは創れない,
ような気がする。
そして,まかり間違ってもトップに立つ器でもない。
これは恐らく間違いない。
これは決して悲観しているわけではない。
その適性に合った,
自分なりの「成功」を目指すしかあるまい。
分相応の夢を見ろ,ってことだ。

さて,そろそろ寝て,分相応のいい夢でも見るか。

メモ

先日、家で作業しながら何気に「たかじんのそこまで言って委員会」を観てた。
その時にふむふむと思ったことの覚書。

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マスコミは自分たちのあり方に
恐れなり恥ずかしさなりを感じていなければならない。
自分が行う報道で人の生活が激変したり、
場合によっては自殺する人が出かねないということを
ちゃんと自覚すべきである。
国民の代表、なんていう破廉恥な思い込みは
まかり間違っても持ってはいけない。
マスコミなんて国民の代表でもなんでもない。
あくまで記者個人の意見として語るべきだ。
「客観的な事実」という名の下に匿名で報道し、
そのくせ容疑者の名前は実名報道、
挙句は「国民はみんなこう思ってますよ」などとコメントする。
お前なんかに国民を代表される筋合いは無い。

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すべての宗教は死への恐怖から生まれる。
それゆえすべての宗教は極楽浄土を担保している。
しかし、それが極端に過ぎると
生と死の価値観が逆転することがある。
死によって生が光り輝くという思想。
イスラムのジハードなどがまさにそれだ。

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思考能力不足。
極端な二元論でしかものを考えられないことの馬鹿馬鹿しさ。

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愛国心と言うが愛国心を教えられる教育者がいるのか?
国を、国の文化を、愛している教育者がいるのか?
自分でわかってもいないことを人に教えることなんて不可能だ。

おかん

うちの母親はちょっとずれている。

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うちの母親の献立はでたらめ極まりなかった。
クリームシチューとサバの味噌煮とか、
そんな取り合わせを平気でやってくる。
で、文句を言うと、「じゃあ、サバは箸休めってことで。」
そんなもん箸休めとは言わん。

記憶にある中で一番ひどかったのは、
酢豚とコーンスープという取り合わせが食卓に並んだ時だ。
兄弟でブーブー文句を言うと、「和洋折衷やん。」
おかん、中華まで入っとるで。

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前に実家に帰った時に、リビングに入ると、
得体の知れないマシンがあった。

私「??なんじゃ、これ??」
母親「乗ってみ。」
私「(おとなしく乗る)」
母親「このボタン押してみ。」
私「(スイッチをオンにする)」

するとロデオのようにマシンがグイングインと動き始めた。
なんでも最近、テレビなどで宣伝してるそうで。
そのマシンの上で、無愛想にグイングイン動かされる私。

私「(スイッチをオフにする)」
母親「こんなん。」
私「だから、これは何なんやってば!!」

あんたは「ぼのぼの」か。

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今日も今日で、仕事を終えて家に帰ると、
いつの間にか携帯に連絡が入っているのに気付いた。
着信は22時頃。発信元は実家。
親にしては珍しい時間なので、
「こんな時間になんだ?」と思って、留守電を聞いてみた。
そこには母親の声で、

「あぁ・・えぇっとね・・サッカーの試合で入場してくる時に
子供と手ぇつないで入ってくるん、なんでか知ってるかなぁ、と思って。
じゃあ。」

知るかっ!